狭く深くがよろしいです
2020年に東京で開催予定のオリンピック
数兆円にものぼる費用と時給0円で働く半強制ボランティアの人たちの力でなんとか実現しそうな本大会だが
そもそも、オリンピックってそんな面白いかな
多くの人がそんな一瞬で終わる祭りに莫大な金使うなら被災地の復旧にもっと充てろと抗議しているし、僕もそっちの意見に同意する
しかしもっと根本でそもそもオリンピックがそこまで楽しいものだとも思えないのが僕がオリンピックをサポートできない一番の理由かもしれない。。
なぜオリンピックに熱狂できないのか、その最たる原因の一つは
競技が多すぎる
というものだ
ワールドカップをみてみたらいい
サッカー⚽️ひとつで各国代表がしのぎを削り、毎大会ものすごい盛り上がりを見せる
普段サッカーを観ない僕でもついつい観てしまうし、やはり一つの競技で一つの世界大会が行われているその分かりやすさが自分の興味を引いている大きな要因だと思う
もちろんオリンピックにもサッカーがあるだろうし、野球もバスケも僕が好きなスポーツがあるのだが、どうにも色々と他に同時進行し過ぎて一つに焦点を当て切れない。。
あと費用対効果
競技数がものすごいということは携わる人の数も物凄いことになるし、数百にものぼる種目に対応する競技場などを用意するのに莫大な費用がかかってしまう。大切な国お金。
の割にはたった2、3週間で全て終わってしまう
一つの競技の世界大会を開けば、競技も一つだけだからそんな何十個も何百個も施設を用意しなくて済む
でもオリンピックと同じ世界レベルの大会だから選手の本気度であったり、大会のレベルは十分に高いものとなる
そして選手たちへの注目も十分確保されるし、僕のような見る側も競技が一つだから集中して応援できる
世界柔道、世界水泳、世界陸上、ワールドベースボールクラシック、等々
ひとつの競技に絞った大会だけで十分楽しい!
ということがこれまでの僕の人生ではっきりと実証されているので、ついついそんな莫大なお金注ぎ込んで普段誰も見ないようなスポーツを一斉にてんこ盛りにして必死に盛り上げようとせんくてよくない!?と思ってしまうんです。。
ちなみにただ働らきボランティアを大募集している大会運営幹部は数千万もの報酬を手にしていることはもはや茶番
うんちは皆の宝物
僕には最高に可愛い2人の子どもがいる
娘と息子
だいたい3歳(娘)と6ヶ月(息子)の2人だ
娘はもうすっかりお姉ちゃんで最近ではおしゃべりも上手になり、おしっこだってトイレでできるようになった
が、うんちはまだらしい。どうやらうんちは子どもにとって宝物みたいなもので誰にも見られてないところで密かにするその時間が子どもにはすごく大切なもののようだ
それを妻が先輩ママ友から聞いて僕に共有してくれたのだが、えらく納得のいく話だった
というのも僕自身にとってもまだうんちをする時間は宝物だからだ(29歳 男性)
さすがに「宝物だ」という実感はこの話を聞くまではなかったんだが、否定できない
僕は小さい方をする時はトイレのドアを解放してすることだってあるし、最中に娘がおもしろがってドアを開けてきたりしても、「キャー見るな〜!」とかふざけたりして何にもストレスなくいられるのだが
大のとき、よく考えてみると自分は無意識にドアの鍵まで閉めていることがよくある
もし鍵をしてないときに娘が面白がってドアをあけてきたら、若干ムキになって
「ねえ、やめてくれる?ちょっとあっちいっといて?」と必死に平静を保って娘を追いやる、そんな場面がこれまで数回確実にあった
そう、僕はうんちの時間を自分だけのものにしたくて、誰にも邪魔されたくなくて、必死に守っているのだ
30手前の男でこうなのだから、3歳にもならない娘にトイレうんちを強要するなんて、
なんだかとてつもなく理不尽な気がして、どうも僕にはできない
だからうんちは好きにさせている(うんちの時はおむつ履きたいといい出すからそれに応じている)
でもたまに「うんちトイレでする?」と問いかけて、そのうちトイレでしなきゃだめなんだよ〜、と意識付けだけでもできるようにはしている
するとその意識レベルが徐々に積み上がってある一定値まで到達すると、きっと「うんちトイレでする」と自分から言い出してくれるんだろう、そう予想している
子どもは聞いていないようで、僕らがお願いすることはかなりよく聞いて理解している
聞いていないように見えたり、結果がすぐについてこないと苛立ってしまうこともあるが、その子のタイミングがあるようで、強要しなければしばらくして自分から行動することがほとんんど
だからその「時」がくることをじっと待つこと、それが親の責任でもあるのかなとも思う
決して放任するということではなくて、一歩下がってしっかり見守る
ほんとに子どもの成長は早いからしっかり見てあげて、どんな些細なことでも決して見逃さないようにしたい
というのが平日は朝から晩まで妻に子育てを一任しているやつの偉そうな持論である
敬礼
必要悪と理想のハザマで
まずは先日沖縄の戦没者追悼式にて中学3年生の女の子が披露した非常にアウトスタンディングなポエムを聞いてほしい
沖縄の自然豊かな美しい光景が眼前に広がるような生き生きとした描写の数々と入念に作り込まれた文章にまず誰もが驚くことだろう
聞いたことのないような言葉を中3の女の子が使いこなしているのを見て己の教養のなさを改めて実感し、恥ずかしく感じさせられるほど
しかし何よりも一番驚いたというか心を動かされたものは彼女の言葉よりもデリバリーで、それは彼女の表情、瞳、声の抑揚、そして彼女の堂々としたその姿勢(身体の姿勢と態度としての)から発せられるポジティブな「印象」だ
子どもらしい純粋さと清さ、パワーがものすごいのと、
きっと沖縄で生まれ育ち、親族の間で語り継がれてきた生々しい戦争体験を幼いころから聞いてきたからこそ培われた平和に対する望みと強い意思が垣間みれた
感動した。中3の女の子に対してこんな畏れ多い気分になったのは初めてかもしれない
こっからが本題だが、彼女のスピーチをYouTubeで見終えて(ここに載せているのではないやつ)、みんながどれだけ賞賛しているのかとコメントを見にいくと、意外にも賞賛ばかりではなく批判的なコメントも散見された
批判的な意見の多くは以下のような理由からだった
・こんなんただの綺麗ごと
・現実は違う
・実際に武力によって今の日本の平和は保たれている
・親に教えこまれたはず(洗脳されているだけ)
みなさんはどう思うだろう、
僕のような単純な中途半端な平和主義者からすればこういった反対意見に対して腹を立て、中3の女の子の純粋な主張も素直に聞いてあげられないのかと呆れ返るのはとても簡単なこと
だから今回僕は一歩引いて、心を落ち着かせながら自分の考えに共鳴するこの子の主張と、それに対する反対意見とをできるだけニュートラルな立場から見てみようと試みた
すると面白い世の法則に気付いたような気がしたのでここで紹介しようと思う
確かに今の世の中は残念ながらこの女の子(相良さんという)が望むような世界ではない
毎年莫大な国の予算が戦力を維持、増強するために費やされている。そしてその戦力が抑止力になっているからこそ、近隣の”危ない”(と決めつけられている)国々が侵略してこないでいるという意見も一理あると思う
米軍がなければ北朝鮮、中国がとっくに沖縄を奪いにきてるよ〜なんてのはよく耳にする話で可能性としては確かにないとは言えない
考えてみるとこういった批判的な意見の人たちは誰もが本来は望んでいる平和などといったぼんやりした理想論を切り捨て、もっと現実的になって現状とリスクに眼を向け、本来はきっと支持したくない方法(ここでは戦力確保であったり、強い国に媚を売って味方につけるなど)をあえて選んでいるということ、
いや、選んで「くれている」、ということ
ここが今日の僕の気付きの一番肝心なところ
人は誰も戦争したいなんて最初から望んでいない(軍事産業で潤う一部の支配層を除いて)
なのに庶民である彼らが平和主義を否定するのは現実を見るシビアな考えと危機感があるから
本来はみたくないところに眼を向けて、ぼーっとしてたら危ないぞーって笛をならしてくれている(時には過度になりがちだが)、そんな汚れ役をある意味買って出てくれているのだ
一方でこの相良さんのような平和主義者たちの頭はお花畑で、見たくない現実から眼を背ける世間知らずのただのおばかさんなのだろうか
僕は全くそうは思わない
平和主義は平和主義でこの世の中において非常に大切な役割を担っている
というのも、もしも相良さんのような平和を切に願う気持ちを持った人がいなくなれば世界は瞬く間に戦争へと突入してしまうだろう。競争がさらに激化し、なんでもあり、完全に戦争でも先にやったもん勝ちな世界になると思う
平和を唱え、戦争や利己主義を糾弾する力がまだ世界にあるからその倫理に逆らってあからさまに他国を侵略したり殺したりする(一部では残念ながらすでに起こってしまっているが・・)ことが比較的しにくい状態、ある意味、ここでも人の凶暴性に対する「抑止力」を生み出しているはずだと思う
国際関係が重視されるなかで一国が暴走して殺戮を行うことはリスクがものすごい
各国がお互い無茶をせずある程度のところで空気を読むような雰囲気の根底には少なからず平和主義的な思考と倫理が影響していると思っている
てな感じで対立しがちな両サイドが持つ役割に眼を向けてみたわけです
平和主義と現実主義、(細かくわければもっと枝分かれしていってしまうのだろうけど、今はこの二つ)この二つの思想が混ざり合って、時に対立し合って、生まれているのが今の日本あるいは世界であって「現状」なんだと思う
このバランスがどっちかに傾けば、もちろんそれ相応の結果が生まれる
今の日本の現状が、このバランスが絶妙に「保たれている」結果なのか
バランスが「崩れてしまっている」結果なのか
その判断は各自ですればいい
必要悪と誰もが望む平和という理想の狭間で今日も世界はどちらか一方に比重を加えながら回っているのだろう
オヤゴコロ
出産が近づき、妻と娘は宮崎に帰っている
東京では僕独り
1人の時間はけっこう好きな方だと思うがやはり物足りない
なんたって普段なら家に帰ってドアを開ければただいまと言う以前にドアが開いた音だけで玄関に走って出てきてくれる娘がいて、リビングに入ればとびきり美しい妻が美味しそうな料理を作りながら迎えてくれる
夕飯の後はしばらく娘と戯れて一緒にお風呂に入って、寝る前には娘から両頬にチューをしてもらい、バビュー(love you---)と言ってもらうのが僕の贅沢過ぎる日常だ
そんな幸せな日常が突然なくなってしまったもんだからやっぱりちょっと寂しい
けど宮崎にいれば向こうの義父母がまた最高の愛情を娘に注いでくれてるのを知ってるし、娘がお返しにその存在と笑顔だけで義父母を最高に幸せにしてるのも知ってるから行ってくれて嬉しいという思いもけっこうあるのも事実
自分たちの両親が自分の子どもを見て本当にかわいいなあ〜って笑顔になってる光景は本当に尊いもので、言い表せないほどの喜びを感じる
なんなんだろうね
きっと自分の代わりに娘が親孝行してくれてるからそれが嬉しいのかな(笑
でかしたぞ!もっと頼む!
実るほど頭を垂れる稲穂かな
人の上に立つ人間は必ずこのことわざを心得ておくべきだと思う
逆に言うとこのことわざを体現できていない人間は人の上に立つべきではない
今の僕は立場もステータスも底辺なので、よーするに今はまだこの諺は自分とは関係ない「他人事」なので、こんな偉そうなこと言える状況にあるのです
組織に属するとこの教えを体現できていない上の人間がけっこう多くて非常にいい勉強になる。個人的に「反面教師」ってのは世界で一番インパクトのある方法で教訓を与えてくれる有り難い存在だと思っている(それと同時に迷惑極まりない存在でもあるが・・)
人にとってああなりたい!と思う気持ちより、ああはなりたくない!って思いの方が遥かに実現するのが簡単だと思う
というのも、ああなりたい!って誰かを手本にするのはその人の性格とか、スキルとか、役職とか自分が憧れているその何かをそのまんま体得しないと「ああなりたい」は実現したと言えない
一方で、ああはなりたくない!っていう思いはその尊敬できない人の特定の言動だったり、態度だったり、とにかく嫌だ!と思うその性質さえ避ければ、もうオッケー、実現成功。
ああなりたい!ってのは射撃で自分が狙った、その小さな一点に当たらなければ外れ、不合格だが、ああはなりたくない!ってのは自分が当てたくないその一点さえ避ければ他のどこに玉を打っても合格なのだ
だから人はついつい「ああなりたい!」っていう困難な目標を持つよりも、
もっと簡単で結果が出やすい「ああはなりたくない!」という方に思考をもっていきがちなのかな
あと何より「ああはなりたくない」って思うに至るのはその性質によって何らかの被害を被った結果がほとんどだと思うので、そういう意味でもやはり反面教師はパンチの効いた教訓とモチベーションを与えてくれる
僕もこの反面教師のもつ影響力を上手く使いながら日々の生活を送っていこうと思う
だからみなさんも僕が何か不快な思いをさせてしまったら、ああ、こいつは何か大切なことを教えてくれようとしてるんだな、なんていいやつなんだ、と考えて僕に感謝するようにしましょう
僕もこれまで大切な教訓を授けてくれたall of 反面教師s in my lifeに心からの感謝をお伝えする。
How ungrateful I was...
ハローみなさん
このブログを見てくれている根強い僕のファンがどれくらいいるのかはあまり分からないけど
少ないからず30人くらいはいると見ている
(ブログではアクセス数だけは見ることができる。しかし中には僕の熱烈なファンが複数回閲覧しているはずなのでアクセス数=見た人の数だとはもちろん思っていない。アクセス数の70-80%くらいかなと踏んでいる)
この30人という数字は僕がこのめんどくさいブログをなんとか継続するために必要なギリギリのモチベーションを与えてくれている
これがもしもいつもアクセスが10とかくらいしかなければ、とてもじゃないけど多くの時間を費やして言葉を捻り出そうとは思えないかもしれない
何が言いたいのかというと、やっぱ何かやり甲斐を感じないと物事は継続できないということ
もしもこのブログをただ自分の日記とか記録として書いているならどれだけの人が見ているかなんて関係ないし、ただ将来のために自ら書いて満足できるのだろうけど、僕の目的はそういうことではない
僕の書く文や僕の見るユニークな世界観(自分だけのという意味でユニークと表現している)を一人でも多くの人に共有して楽しんでもらうというところに目的を置いている
だから何人が見てくれているかという数字は僕が自分の目的をどれだけ達成できているかを示す重要な指標となっている
やり甲斐に関していつか妻と僕との間で勃発した喧嘩がとても大切な教訓を教えてくれたので今日はここで共有したい
妻は専業主婦で、毎日まだ保育園にも行っていない幼い娘と付きっ切りで、家事をしてくれている
僕は平日は毎日朝8時ごろ家を出て、夜7時前に帰宅する
ある日妻は僕があまり妻のしていることに感謝を示さないことに不満を漏らした
お互いの言い分があり、ある程度の言い合いにまで発展した
僕の言い分はこうだった
「僕は夫として毎日働いて家族を養い、責任を果たしている。別に僕は毎日妻から
今日もお疲れ様、働いてくれてありがとうなどと言われなくても全然不満はないし、それでいいと思う。だって働くのは僕の責任だから」
「妻は専業主婦として娘を育て、ご飯を作ったり家事をするのが責任だし、それをしたからといってそんなに賞賛されたり、感謝されるべきではない」
「ただ夫婦は二人で全く違う責任を分担しているだけなのだから、その責任を果たす中で自分で満足していけばいいじゃないか」
自ら書いときながら酷い言い分だなと恐いくらいだが、確かこんな感じのこと言ったと思う。
言ってしまった
そのあと妻がすごく悲しみと怒りに満ちたような顔でこう言い返してきた
「あなた(実際はあなたとは言っていないが)は自分で仕事を頑張れば上司や周りに評価して貰えるし、感謝される機会はいくらだってあると思うけど、私がすることはあなたにしか分かってもらえないんだよ?」
この言葉を聞いた時、自分がどれだけ冷たく、思いやりのない浅はかな人間なのかと情けない気持ちになった
そうなんだ
妻がやることは全て僕や家族のためで、それ以外には何もない
にも関わらず僕はそんな妻に対して
いちいち感謝を求めるななどと言ってしまった
僕は完全に間違っていた
人が何かする時には必ず動機があり、継続するにはモチベーションが必要
誰かに認められることが必要
当たり前のこと
妻が家のことをよくしてくれるには僕の何気ない感謝の言葉だったり、ただ「美味しい」という言葉が必要のようだ
しかもそれ以外とくに何も求めない妻のけな気で無私な姿勢はどれだけ偉大で尊いものだろうか
僕はそんな妻に一生感謝をしていくという特権にあやかっている
一輪車に乗って見下ろす町は
僕は寝ているときそれほど夢を見るタチではないが(正確には目覚めた後夢を覚えていることがほとんどない)、たまにすごく恐ろしい同じような夢を見ることがある
中でも一番恐いのは自分が一輪車に乗って町を徘徊している夢だ
これは身の毛がよだつほど恐い
なんつったってその一輪車の高さは裕に20メートルを超える、おそらくビル10階くらいの高さがあるからだ
そんな罰ゲームも甚だしい一輪車に股がって何の支えもない状態で進まないといけない
見下ろす道路は多くの人や車が行き来する忙しい一般道でもちろん地面は堅いアスファルトでできている
倒れるようなことがあれば命はない
しかしそんな状況ですでに支え無しの状態でスタートしてしまっている
漕いで前に進まない限り確実に倒れ、はるか下の地面に叩き付けられる
だから僕は泣きそうになりながら、何か支えに手が届く場所まで絶対にいってやるという決死の覚悟を胸にペダルを漕ぎ出す
しかし問題がある
そもそも僕は普通サイズの一輪車ですら乗れない
人生これまで一輪車を漕げた試しが無い
いや、ちょっと僕が運動神経が悪いみたいな印象を持たれると損だし、なんか悔しいのでここは言い訳させてもらうと
僕は小学生ながら一輪車ができた時点で女の子からモテることはまずないということを悟っていたので、一輪車をろくに練習したことがないし、上手くなりたいと思ったことすらない。だからもちろん乗れないし、乗れないことに何の悔しさも感じたことはない。
言っておくがその他のスポーツは大抵、平均以上の能力はあると自負している(※泳ぎ以外)
いや、待て、「泳ぎ以外」と書くとまるで僕が全く泳げないやつだと思うかもしれないがそういう訳でもない。中学生の頃、泳ぎの上手い人間から嘲笑されながらも、もがきながら25メートルは泳ぎ切るという快挙を成し遂げたことはある。だから決して全く泳げない訳ではない。 その気になれば25mは泳げるのだ(ドヤ顔)
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誤解が解けたところで
僕の置かれている絶体絶命な一輪車の上に話を戻そう
そう、漕げもしない一輪車に乗せられ、何の支えもないまま地上数十メートルの高さに放置されているこの状況
半泣きでペダルを漕ぎ、進み出す自分
今自分の置かれている足のすくむような高さを意識せぬよう必死にただゴールである、支えになる何かに掴まれるその瞬間まで絶対に漕いでみせる
生きようとする意思は強い
これまで自分がこんな強い覚悟を持って何かをしたことがあっただろうか・・
きっと小学生の頃給食の時間に好きな女の子に「うちもトマト嫌いだから、根木君、せーので一緒に食べよう?」と言われたあの時くらい今の自分は強い覚悟を決めているかもしれない
その時の僕は言うまでもなく食べ物の中でダントツで一番嫌いなトマトを口に含み、自らこの歯であの気持ちの悪い、薄い張りのある皮を破り、ぐちゅぐちゅした気持ちの悪い食感とあの特有の、僕の味覚と嗅覚が即座に拒絶反応を送り出してしまう生臭さに嗚咽しながら死ぬ気で喉の方へと物体を送り込もうとした。が、その瞬間またもう一度大きな嗚咽に襲われ結局その前に食べていた他のおかずたちもセットでその子の前でリバースしてしまうという大失態を犯してしまった。
あの時の自分くらい強い覚悟を胸に今の自分は一輪車を漕いでいる
漕ぎ出して意外と進めることに気付く
だめだ
気を抜くな
なんとか
何としてでも
支えになるものにたどり着くまでは・・
じゃなきゃ死ぬ・・
ガンッ
自分の遥か下で何かがぶつかった感覚を覚える
なんせ自分が進んでいるのは人や車の多い一般道だ
地上ではありとあらゆる段差や物で溢れている
そこを下も見ず、いや、見る事もできず一輪車を漕いでいたのだ
無謀な挑戦だった
・・・・
「いやいやいや、この状況で障害物はなしだろ」
手加減なしの厳し過ぎる現実に(夢だけど、夢の最中はリアルやん?)怒りさえ覚えた時にはもう自分の身体は前へと傾いている
落ち始めの瞬間はとてもゆっくりで、まるで映画のワンシーンでも見ているかのように滑らかに奈落の底へと落ちてゆく
落下速度はどんどん加速し、ついにはジェットコースターに乗った時の「胃の浮く感じ」と表現されるあの感覚の最強版と表現すればいいだろうか・・あれを味わった
ああ死んだ・・
そして地面に叩きつけられる瞬間に目を覚ますというお決まりのパターン
そう、これが僕の定番の最恐悪夢なんです
いやこれ、まじでこわいんすよ
きっと僕と同じように似たような夢を何度も見る人っていると思います
あなたのちびるような悪夢ぜひ聞きたい
いやあ、しかし
一輪車のあの不安定感ときたら反則だろ