時代の罠
毎週日曜は僕は教会へ行く
その理由はたくさんあるが根本的なところでは
生きている意味と目的を再確認するため、というとこだろう
人はなぜこの世に生を受け、生き、そして死ぬのか
現代の日本の社会は誰もが一度は持つであろうこの最も素朴で深遠な疑問について思い巡らす暇さえ与えないようにせわしく流れている
仕事、家事、学校、ゲーム、習いごと、食事、スポーツ、SNS、通院、デート、趣味、趣味、趣味、趣味
なぜ生きてるのか
そんなぼんやりとしたことについて考えるほど今の人たちは暇ではないのだ
暇がないのだ。時間がないのだ。自ら奪っているし、とことん奪われているのだ
僕にとって多くの日本の人たちはこの疑問に対して目をつむり、耳を塞ぎ、必死にそんなこと考えなくて済むように他の何かに没頭しようとしているように見えて仕方がない時がある
本当は一人一人が納得のいく答えを持つべき大切な疑問だ
もし答えが見つからないなら探し続けるべき大切な疑問だ
だが、忙しいんだ
朝から晩まで働き、もしぼーっとする時間があればすかさずスマホを握る。
気付いたら一日が終わり、明日が猛スピードでお迎えにあがる
いつかは持っていたはずの疑問もせわしく過ぎる時とともに消えていくのだろう
そして多くの人がこういう結論に至るのだ
「なぜ生きるか?そんな答えなんてなくたって生きていけんじゃん」
そう、正解。
生きていけるんだ
死にはしない
死ぬ訳がない
でもその「答えなんてなくても生きていける」って結論
実は全くをもって結論になってないって気付ける人はどれくらいいるんだろう
わかりやすく別々の2人の会話として見てみよう
Aさん「人はなぜ生きるんだろう」
Bさん「答えなんてなくたって生きていけるよ」
以上
まったく噛み合っていない会話だということ
なんかBさん酷くないですか?冷たくないですか?やる気なくないですか?
多くの場合この会話が一人の人間の心で交わされているという衝撃事実
もしAさんが
「人って生きる意味を見つけずに生きてけるのかな」と聞いたなら
「答えなんてなくたって生きていけるよ」と返すのは自然だ
だがそんなこと聞いてない
人はなぜ生きるんだろう
あなたも一度くらい自分自身に問いかけたはずだ
その問いに対する返答がBさんのように諦めと思考停止でないことを祈る