ばさし’s blog

日々感じた事を記す。それは自分のためであり、あなたのためでもある。

その名もジグリング

僕はユスラーだ

ユスラーとは僕が作った言葉だが

まあ簡単に言えば意識的に貧乏ゆすりをする人のことを指す

僕の仕事は基本デスクワークなのでこれ見よがしにパソコンを打ちながら日々貧乏ゆすりをしている

これは完全に癖になっている部分もあるが、その自覚はしっかりある

でも僕はあえてやめようとは思わない

直さないことを選んでいるのだ

それは僕の中で貧乏ゆすりがもたらすポジティブ要素がネガティブよりもずっと大きいと判断しているからだ

 

まずは貧乏ゆすりが僕に及ぼす損失、ネガティブ要素を列挙してみよう

 

・周りからの痛い視線や自分に対するマイナスイメージ

・振動を生み、周りに迷惑を与えかねない

 

・・・・くらいか?思ったより出てこないもんだ

まあまずほとんどが「貧乏ゆすりはみっともない」という昔からのバイアスが起因しているマイナスイメージで、多くの人はそのタブーを犯さないように、あるいは自分の評価を落とさないように貧乏ゆすりをしないように心掛けているのだろう

振動の問題は誰かと同じ机で作業している時はかなり迷惑になる

僕もこれだけは注意したいと思っている

あくまでマナーを守るユスラーでありたい、そう思っている

 

じゃあ一方で貧乏ゆすりがもたらす利益、プラス要素ってどんなものがあるか

あなたはいくつ浮かぶだろうか

いいことなんて一つもないよ!と思っているとしたら僕にとってあなたは歪んだ日本の風習に相当侵されているタイプだと思う。傷つけるつもりはないが

 

それではいくつか挙げてみよう

 

・眠気覚まし

これは実に有効でこの効果は僕自身の長い大学生活で実証済み。当たり前だが身体を動かすことは少なからず眠気と戦うために有効だということ。しかし眠気がかなり強い時には効かないこともある

 

・カロリー消費

オーストラリアの研究チームが1時間の貧乏ゆすりはだいたい30分のウォーキングと同じくらいのカロリー消費が見込めるとの結果を報告している。

事実、ぼくも毎日ゆすってますがけっこう足にくる

 

・血流促進

言うまでもなく貧乏ゆすりは下半身の血行を促進し、エコノミー症候群の予防に大いに役立つ。女性に多い足のむくみの改善にも効果あり。

 

・ストレス発散

貧乏ゆすりはストレスを感じている時に自然にしてしまうものらしい。それはストレスを発散しようと身体が働いている証拠。身体は知っている。

 

・股関節や膝関節の軟骨の再生を促進

これはけっこう整形外科の世界では有名な話らしい。

リハビリの一環として貧乏ゆすり(医学ではジグリングと呼ぶ)を行うようです

 

以上ざっと挙げましたがいかがでしょう

掘ればもっとでてくると思います

 

とにかく心と身体にもたらすベネフィットが多すぎるくないか

 

これらのプラス要素を考えたとき、周りから痛い目で見られるということが自分にとってすごく小さなことに思えてしまう

 

だから僕は貧乏ゆすりをやめられないし、やめようと思わない

 

でも少しでも理解はして欲しいので会社ではこれまで述べたような貧乏ゆすりの魅力を周りの人に伝えたりもしている・・あんま真面目に聞いてくれる人はいないが・・

 

これから寒くなって足のむくみが気になる人もどんどん増えることでしょうし

 

みんなでゆすっていこうではありませんか

 

よりよい日本の未来のために

 

 

 

 

あの味は

海辺には世界中の富豪たちの所有物であろう無数のクルーザーとヤシの木がズラりと並び、その景色を背景にランナーたちが上半身裸にサングラス姿で颯爽と駆け抜ける。

 

近くのパッションフルーツと生クリームがどっさりのったパンケーキのお店には日本ではそんなキャラではないはずなのにハワイに来たテンションで思い切って露出度を高めたジャパニーズガールズたちが長い列を成している。

 

わざわざハワイに来たのになんだこの外国感のなさは、、と幻滅しながらも、ハワイなら英語が喋れなくても安心ということが実はここを旅行先として選んだ大きな理由でもあった自分はとても彼女達を責めれた立場でないと心に整理をつける。

 

南国の太陽の陽射しはジリジリと肌を焦がすように照りつけてくるが、木陰に入りさえすれば浜風が火照った身体をすぐにひんやりと優しく冷ましてくれるので決して暑過ぎるとは思わない。

 

日本のジメジメしたナメクジのような夏よりは遥かに救いようのある暑さだ。

 

ふと喉が渇いたなと辺りを見渡してみる。


道の向こう側に小さなスムージー屋さんがあるではないか。

歩いて店の前まで行くと白いタンクトップ姿のハワイアンビューティーの女の子が「Hi, what can I get for you?」と、接客するめんどくささとバイト中の責任感がちょうど半々くらいで入り混じったような笑顔で迎えてくれた。

 

チョークボードに書かれたメニューがやたらお洒落に感じるのは自分もハワイに来てすっかり気分が舞い上がっているからなのか、それとも英語だけのメニューに圧倒されているからなのかは分からない。

 

メニューを必死になって読んでみるが店員さんのお世辞にも上手とは言えない作り笑顔と視線が気になってあまり内容が入ってこない。というか、英語だから入ってこない。

あーメニュー見てもよくわかんねえやと諦めかけたその時「Pineapple」という単語が目に入り、僕の脳に伝達され瞬時に「パイナップル」という安心感に満ち溢れた響きに翻訳される。


せっかく南国にいる訳だし丁度いいじゃん、とただ逃げの選択をしただけの自分を正当化し、普段は大して好きでもないパイナップルにしようと決める。

そして必要以上に緊張しながらもできる限りかっこよく、かつ自然に「ワンパイナッポースムーディー、プリーズ」と店員の女の子に伝える。

スムージーのジーがGじゃなくてTHIEだということを知っていた自分を誇らしく思いながらも果たしてちゃんと伝わるのかけっこう不安を抱いていたが、その子が即座に「Ok. One pineapple smoothie〜♩ Is that everything?」とすぐに復唱しながらレジのiPadを打つ姿を見て大きく安堵する。

 

1、2分ほどして呼ばれ、キンキンに冷えたスムージーを受け取る。

渡してくれた時の女の子の笑顔が最初よりはずっと自然なものに見えたのは、もう「サンキュー」以外の英語を話す必要がないという状況が生んだ心の余裕からくる錯覚なのかどうかは分からないが、とにかく爽かで素敵な笑顔だった。


さっそくずいぶんと太いストローを咥え思い切りスムージーを乾いた喉に流し込む。

パイナップルの爽やかな酸味を期待していたのだが思っていた味とは少し違う風味を感じる。

 

この優しい甘さ何だっけなーとずいぶん前に味わったことがあるような南国風の甘みに記憶を集中させてみる。

 

だめだ、出てきそうで、思い出せない。

 

まあ美味いし、いいや!と思い出せないストレスと戦うよりも、ハワイにいるといういかにも非現実的な現実に向き合うことの方が今は大事だと言い聞かせ、思い出そうとすることをやめる。

 

立ち並ぶヤシの木の葉が風に揺られ静かに涼しげな音を立てている

 

何メートルもあるてっぺん付近には大きなヤシの実がついている。

 

あんなんが頭に落ちてきたら大惨事だなとか考えて一瞬ぞっとする。

 

ん?ヤシの実?

 

ココナッツ?

 

そうだ、ココナッツだ!!

 

パイナップル&ココナッツ・・・

 

きっと読めなかった他のメニューの中でも一番ハワイアンなスムージーだったに違いない

 

なんてことを思い満足に浸りながらさっきまでいた浜辺へと戻っていく

 

ランナーたちの汗ばんだ背中とターコイズブルーの海がキラキラと輝いている

時代の罠

毎週日曜は僕は教会へ行く

その理由はたくさんあるが根本的なところでは

生きている意味と目的を再確認するため、というとこだろう

 

人はなぜこの世に生を受け、生き、そして死ぬのか

 

現代の日本の社会は誰もが一度は持つであろうこの最も素朴で深遠な疑問について思い巡らす暇さえ与えないようにせわしく流れている

 

仕事、家事、学校、ゲーム、習いごと、食事、スポーツ、SNS、通院、デート、趣味、趣味、趣味、趣味

 

なぜ生きてるのか

 

そんなぼんやりとしたことについて考えるほど今の人たちは暇ではないのだ

 

暇がないのだ。時間がないのだ。自ら奪っているし、とことん奪われているのだ

 

僕にとって多くの日本の人たちはこの疑問に対して目をつむり、耳を塞ぎ、必死にそんなこと考えなくて済むように他の何かに没頭しようとしているように見えて仕方がない時がある

 

本当は一人一人が納得のいく答えを持つべき大切な疑問だ

 

もし答えが見つからないなら探し続けるべき大切な疑問だ

 

だが、忙しいんだ

 

朝から晩まで働き、もしぼーっとする時間があればすかさずスマホを握る。

 

気付いたら一日が終わり、明日が猛スピードでお迎えにあがる

 

いつかは持っていたはずの疑問もせわしく過ぎる時とともに消えていくのだろう

 

そして多くの人がこういう結論に至るのだ

 

「なぜ生きるか?そんな答えなんてなくたって生きていけんじゃん」

 

そう、正解。

 

生きていけるんだ

 

死にはしない

 

死ぬ訳がない

 

でもその「答えなんてなくても生きていける」って結論

 

実は全くをもって結論になってないって気付ける人はどれくらいいるんだろう

 

わかりやすく別々の2人の会話として見てみよう

 

Aさん「人はなぜ生きるんだろう」

Bさん「答えなんてなくたって生きていけるよ」

 

以上

まったく噛み合っていない会話だということ

 

なんかBさん酷くないですか?冷たくないですか?やる気なくないですか?

 

多くの場合この会話が一人の人間の心で交わされているという衝撃事実

 

もしAさんが

「人って生きる意味を見つけずに生きてけるのかな」と聞いたなら

「答えなんてなくたって生きていけるよ」と返すのは自然だ

 

だがそんなこと聞いてない

 

人はなぜ生きるんだろう

 

あなたも一度くらい自分自身に問いかけたはずだ

 

その問いに対する返答がBさんのように諦めと思考停止でないことを祈る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も美人を探してる

僕は昔から人をじろじろ見る癖がある

 

歩きながらすれ違う人はもちろんのこと、車を運転している時でさえ反対車線を行く車の運転手を見たりすることはよくある

 

電車に乗り込むようなことがあれば目の届く範囲にいる人はきっと無意識のうちにザッとスクリーニングしているだろう

 

それはタイトルにある通り美人さんを探しているという側面もあるのかもしれないが決してそれだけではない

 

ことの本質はそこにはない

 

僕はただ僕の周りに存在する「非日常」を極力見逃したくないのだ

 

その証拠に僕は美人だけでなく

ちょっと変わった人だったり、やたらニヤついている人だったり、やたら威圧的な態度の人だったり、えらく肌の調子が悪そうな人だったりなど、例を挙げるとキリがないがとにかくありとあらゆる様々な「あまりお目に掛かれないタイプ」の人が僕の近くにいればその存在に気付かないようなことがないように必死に生きているのだ

 

目を奪われる対象が男にだってなることも珍しいことではない

それはとびきりのイケメンさんであるかもしれないし、逆に言えば世紀を代表できるくらい冴えない男がいれば僕はその出会いに大いに胸を躍らせるだろう

 

もしも美女が全く珍しくなければそれはもはや美女ではないし、美男でも変な人でもそれは同じことが言えるだろう

 

珍しく、かつ少数派であるがゆえに「美男美女」、あるいは「変な人」という特別枠が設けられているのだ

 

要するに普通や日常とは一線を画す魅力がそこにあるから僕の「非日常センサー」がついつい反応してしまうのである

 

けどこんなこと言ってもきっと理解されないだろうし、僕が妻の前で美女を眺めていればきっと妻は気を悪くするだろう

 

だから妻がそばにいるときだけは僕の「非日常センサー」の探知設定から「美女」だけをロックするようにしている

 

うーん、それもちょっと違うかもしれない

センサーは一分の狂いもなく、もはや一人も漏らすことなく完璧に反応しているのだがセンサーを司るハードウェアである僕自身が反応を出さないように設定はしてあるといった方が正確だろう

 

だから妻が「今さっきの人モデルみたいだったね。」と言ってくれば「へ?そんな人いた?」としらを切るし、「見てあの人、すっごい美人!」と言ってくれば、例え僕のセンサーは20秒前にすでに探知済みであったとしても、初めてその存在に気づいたかのように「おお!たしかにそうだね」と言ってみたりするのだ

 

妻はこれを読んでショックを受けるかもしれないが、もしショックを受けるのならまだ僕のこの行動の本質を理解していない証拠だろう

 

もう一度言うが僕はただ神様がその時その瞬間に僕の周りに用意してくれた「非日常」を見落とさないように努めているだけなのだ

 

例えばプロスポーツを観戦する人たちも僕のいうところの「非日常」探求者たちであり、つまり彼らは「普通」や「常識」のレベルを超えた選手たちの技術の高さに惚れ込んで自分の時間や労力を費やしているのだ

 

一方で選手の技術や競技にはさほど興味もなさそうだし、そもそもそのスポーツに対しての知識もほとんど持ち合わせていないのにやたら熱烈にある特定の選手だけを追っかけている女子たちの心理はちょっと僕には分からない

 

でもきっと彼女たちも何かしらの「非日常」をその選手に見い出しているのだろう

 

このような「非日常」は意外とそこらじゅうに落ちてるもので、ちょっと注意すれば見つけることができる

 

しかも案外それで人生が少しだけ楽しくなったりもするのだ

 

これからも僕は身の周りの「非日常」をくまなくパトロールしていく

 

そのつもりだ

母の目

今日は僕の母について話したい。

母はずいぶん長い間目があまり見えていなかった。

視力が極端に低かったのだ。

そのせいでよく自転車で田んぼに突っ込んだりしていた。

世の大抵の低視力の人たちは眼鏡という今となっては文明とも呼べないくらい当たり前に存在するアイテムに頼るのが常だが、僕の母は違った。

頑に眼鏡だけは掛けなかったのだ。

命の危機に幾度となく直面しても眼鏡だけには頼りたくないようだった。

父も眼鏡を掛けるように何度も忠告し、懇願したようだが効果はなかった。

そんな母が眼鏡を掛けない理由は至ってシンプルなものだった。

それは「余計ブサイクになるから」ということらしい。

僕は母をブサイクだと思ったことはないが母には自尊心が著しく欠落しているようで、そこはもう家族の僕らにも矯正することはできないどうしようもない部分だった。

コンタクトが流行って10年ほど経ってから、相当遅れ気味についに母はこの眼鏡の先を行く文明に手を伸ばした。

ワンデーアキュビューだ。

「眼鏡ではブスになる」という理由ならコンタクトはその悩みを全て解決するくらいの威力があった。

しかし、結果長続きはしなかった。

交換がめんどくさかったのか、つけ心地にに違和感があったのか、

理由はよく知らないが母はコンタクトを間もなく使わなくなってしまった。

結局見えることをそこまで望んでいなかったのかもしれない。

また田んぼに突っ込んで骨を折る日々の始まりだ。僕ら家族にとってはまたヒヤヒヤの毎日の始まりだった。

 

一方で、僕は一度だけ母の目があまり見えていないことを心から有り難く思ってしまった経験がある。

それは僕に初めて彼女ができた中学の頃の話だ。

うちの中学では付き合いが成立した瞬間に男は彼女を毎日家まで送ってあげることが義務づけられるような雰囲気があった。

もし家まで送ってあげないとしたらそれはむしろ付き合っているとは認定されないような気さえした。

みんな徒歩通学だったことも考えると、この「義務」に費やす時間と労力は計り知れない。

まあでも自分の惚れた女の子と一緒に歩いて帰る時間は誇らしく、常に胸が躍るような経験だったことは確かだ。

中学の頃の僕は自分の親に彼女ができたことなど絶対に知られたくないタイプの男子だった。

その絶対のレベルは恐らく他の誰よりも強いのではないかというくらい深く真剣に知られたくないと願っていた。

別に付き合いを禁止されていた訳でもなかったがとにかく嫌で嫌で仕方なかったのだ。

今考えると不思議でなんでそこまで知られたくなかったのか理解に苦しむが、確かに知られることをえらく恐れていたのははっきりと覚えている。

それほど大きな「秘密」を抱えながら彼女と一緒に歩いて下校することには言うまでもなく明らかなリスクが伴った。

しかも彼女の家までのルートは母が愛用しているスーパーの近くを通らないといけないとう情け容赦のない道のりだった。これをほぼ毎日行うなんていわばミッションインポッシブル、いや、ミッションインポッスィボーだ。

そんな恐怖と隣合わせの状態で数ヶ月の間僕はこのミッションインポッスィボーを遂行し続けるという離れ業をやってのけていた。

「なーんだ、案外会わずにいけるもんだな」と油断と慢心が僕の心に入り込んできていたその日もいつも同様に大好きな彼女を家まで送るという、その頃の僕には他の何にも増して重要な使命を果たしている最中だった。

 

突然最も恐れていた光景が僕の目に飛び込んできたのだ。

母が前方何十メートルか先から自転車に乗ってこっちに向かってきているではないか。

母と違って僕は果てしなく目がいいので、普通の人よりもだいぶ早い段階で遠くの人物を認識することができる。

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これは余談だが

僕の目の良さときたら異常なほどで、

高校の頃腕に顔を乗せて机に伏せていた時に起きたことだが、

うっすら目を開けると自分の制服のブレザーを繊維、あるいは分子レベルで確認することができた。

顕微鏡でみるあの映像となんら遜色ないくらいの精度で繊維と繊維が絡み合い、織りなす芸術を楽しむことができたのだ。僕は寝たふりをしながら眼前に広がるミクロの世界を5分ほど堪能した経験がある。

これは僕の目の良さを語るほんの一例にすぎない

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母が迫ってくるのに気付いた時ぼくは反射的に近くに曲がり角がないか探した。

しかし運は僕に味方してくれなかった。母が自分たちの場所に到達するまでの時間で身を隠すことのできる場所はどう見てもなかった。

 

おしまいだ。

ついにバレる。僕にかわいいかわいい彼女がいることがついに母に、そして家族にもバレてしまう。

くそ、、、もうどうにだってなれ。

そんな諦めと絶望を噛み締めた瞬間、遂に悠然とチャリを漕ぐ母が僕と彼女の真横を通り過ぎる。

通り過ぎる瞬間母は僕たちに向かって小さな声で「こんにちはー」と挨拶をしてきた。

最も恐れていたことが突然現実となり僕は心の整理をつけようと必死だった。

振り返ることもできず、僕はただただ通りすぎた瞬間の母の様子を何度も脳内で巻き戻し再生した。

 

ぼんやりとこっちを見つめながら、えらい小さな声で「こんにちはー」

 

確実にこっちは見ていた、しかし目の焦点がしっかりと僕を捉えていたようには思えないような視線。

もし僕がスーパーサイヤ人だったら母のあの時の目は僕自身を見ているというより僕の周りのメラメラした、シュインシュインと音を立てるあの黄色いオーラを見ていたようなぼんやりとした視線だった。

 

え、、、ちょ、待てよ、、

今度は母の視線ではなく僕のこの耳で得た情報を検証してみる

 

なんだか自信なさげに心なく、消え入るような「こんにちはー」が再び聞こえてくる

再生が終えた瞬間僕の精神は蘇り、道を行く足には喜びと活力がみなぎる。

 

分かる!

息子の僕には間違いなく分かる。

 

小さな声で「こんにちはー」と、つぶやくように言うあの感じだ!

母がどこのだれにでも言うあれだ。

知り合いとか友人に対してではない(無論、家族に対してでもない)ただの日本人としての、あるいは町内の人間としての義務から発せられるあの空っぽの「こんにちは」なのだ!

 

そう、母は僕に気付かなかったのだ。

 

母からするとただ自分の家とは反対方向に帰っていく息子と同じくらいの中学生に向けて「こんにちは」と言っただけだったのだ。

しかしまだ確証は得られず半信半疑の状態でその日は帰宅した。

 

さっきの息子という他人に発した「こんにちは」からは想像もつかないような明るく温かい声で「おかえりー」といつも通り迎えてくれる。

その後の母の態度や振る舞いも全くいつもと変わらないことから疑いはすっかり胸から消え、僕の完全犯罪は確実なものとなった。

 

 

その日ほど母の低視力に感謝したことはない。

 

そんな母もついに最近レーシック手術を受け以前の視力0.02くらいから1.5近くまで回復させることができたようだ。

 

そして今年の夏、僕は母が手術して初めて帰省した。

久しぶりに息子と再開し、とても嬉しそうな母の姿を見てふと思う。

 

母さん、もしかして、、、

 

 

今初めて僕の顔を知ったのかな。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

哀愁の正体

今の時期は一年で一番好きな時期だ。

たとえ同じ気温であったとしても春のそれよりも秋のこれの方が遥かに好きだ。

だからこの気温だけが僕が秋を好きにさせてる理由でないことは確かだ。

考えてみれば僕は朝日よりも夕陽が好きで、その終わりゆく儚さがあるがゆえ、いとおかしだと感じる。

でもなんでだろう。

春や朝日は始まりを告げるものだし、希望に満ちてる感がある。

一方で秋とか夕日ってのはやたら終わりを感じさせるし、間違いなくどこか哀しい表情を帯びている。

なぜだ。

なぜそれでも僕はどうしても秋が好きなんだろう。

実は生粋の根暗野郎なのか、それとも感傷に浸っていたいただのナルシストなのか。。

きっと後者の方が近いものがあるだろう。

けどきっとそれだけではないはずだ。

ただのナルシストで終わらないためにも何か納得のいく理由を探してみよう。

そうだ、あれじゃないか、

きっと終わりは必ずしも終わりじゃないってどこかで知ってるからこの「一時的な終わり」を楽しめているのではないだろか。

陽は沈めばまた昇ると信じてるし、季節もまた巡ると完全に思い込んでいる。

だからある意味秋にも夕陽にも希望は満ち溢れている。

また会えるって分かってるからその別れをある程度は楽しめるし、感謝することができる。

本当に、絶対にこれが最後!って思ってるなら僕は秋も夕陽も別れも何ひとつ楽しめないだろうし、きっとその「終わり」は恐怖でしかないはずだ。

けど僕はそこまで根暗じゃないし、度胸もない。

本当の終わりなんてきっと誰も楽しめたものではないだろう。

結局僕は「また次がある」という甘えと希望のもと、このテンポラルな「終わり」を楽しんでいるに過ぎない。

そうだ、きっとそういうことだろう。

2017.10.05 閉店前の喫茶店にて

狂気vs無感情

「てめえこの野郎ーー!」
おじさんの怒号が京王線新宿駅ホームに響き渡る。

駅について改札へと向かう僕は反射的に声のする前方に目をやる。

すると60くらいの小さなおじさんが20手前くらいの細身で長身の男に肩で何度も体当たりしているではないか。

こうなるとやられている側のリアクションというのも非常に気になるもので通りすがりに横目で確認。

するとなんと、若者は全く気にも留めていない様子でただただ無表情で横向きにしたケータイを見つめながら荒れ狂う小さなおじさんを払いのけて進もうとしている。

これには驚いた。

目の前を飛んでいる蚊を軽く払いのけるような余裕っぷりだ。

怒鳴るおじさんの言葉を聞いて分かったのは、どうやらその若者の割り込みにぶち切れてしまったようだ。

最近キレるおじさんが急増しているとよく耳にすることはあったがここまで綺麗な実例に出くわすとは。

一方で全く熱くならず、むしろ怖いくらい冷静かつ無情にその場を去った若者には少し感心すると同時にスマホに夢中になるあまり外界をシャットアウトする現代っ子の問題も垣間見た気がした。

2つの大きく異なる世代が持つ特有のクセとクセとが相容れない形で衝突した事件であった。

2017.10.04帰り道